初音ミクあるいは退屈な日常と闘う音楽

何年か前のことだけど、アニメになった「ブラック★ロックシューター」を観てて、あ、また同じ構造のお話だ、て思ったことがあった。主人公は鬱々と絶望的な学園生活を送ってて、それが何かのきっかけで別世界に変貌して極めてシビアな殺し合いが始まる、みたいな。

ペルソナ、ダンガンロンパ、魔法少女まどかマギカ、未来日記、BTOOOM、ガンツ、うーん、同じ構造の話は挙げればきりがない。

「退屈な日常」と「殺し合い」の往来。殺し合いを通じて何だか大切なもの(概ね仲間とか愛情とかみたいな)を見つける。日常と異世界とを媒介するのは、うさぎっぽかったりパンダっぽかったり、なんだかファンシーな感じのイキモノで。

きっと、ゲームにしろマンガにしろアニメにしろ、作り手はみんなオリジナルで個性的なストーリーを創ろうとしてると思う。思いたい。でもいつか同じ話になってる。全部プロが創ってるのに。それでいいのかな。

なぜ同じ話ばかりが再生産され続けるんだろう。そこには何か理由があるはず。

ある意味で、私たちは本当に出来上がっちゃった世界に生きてる。もちろん夢も希望もなくはないけど、何だかシステムが出来上がっちゃってて、その構造が、ちょっとやそっとでは変えられないんじゃないか、って解ってしまってる。情報も簡単に取れるし、みんな賢くなってるし、イロイロ見えるからこそ、変えられない絶望感って、すごくあるかも。

出来上がったシステムから逃れられない。結局どこへ行ってもしんどいだけだから、諦めてそこでおとなしく生きてる。レジスタンスも革命もだっせぇし、そんなもの忘れたふりして鬱々とした学園生活。

ウサギやパンダが媒介する向こう側の世界、切れば血が飛び散って、生きていることそのものが極めて貴重な異世界の物語は、この「出来上がったシステム」への絶望の裏返しとしてある。同じ物語が繰り返し語られるのは、そんな世界を忘れないための、僕らの知恵なのかも知れない。

世界を変えられない自分はなんとちっぽけで無価値なのだろう。僕らは日々それを思い知らされながら、現実に生きている。

それでも、新しい世界があるって、創れるって、信じたい。

少なくとも僕は、初音ミクに、そんな思いを重ねている。ある意味で初音ミクはそんな退屈な日常と殺し合いの世界の往来の、向こう側に突き抜けている。そもそも電子の神としてあるミクさんは、リアルとバーチャルとか日常と異世界とかの陳腐な構造を弁証法的に超克してる。

だって僕らにとって、ミクさんはリアルそのものだし。うたを創るとき、聴くとき、素晴らしい二次創作に触れるとき、ニコ生で流れるような曲の展開に痺れるとき、僕らは創りモノの切れば血が流れる世界なんかより、余程リアルに生きている。

もう学園と殺し合いの世界を往来する物語なんて必要ない。僕らは既にミクさんという退屈な日常と闘う武器を手にしている。ミクさんがうたう「ブラック★ロックシューター」を聴きながら、そんなことを考えました。

2ndアルバム「Eulogia」に納められたとてもポップな曲「プリン・キャンディ・ストラップ」に、殺し合いの世界は少しも登場しません。でもこれは、闘う同志たちに向けた、レジスタンスのうたです。

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