「不在の中心としての神」から「普通のキャラクター」へ

pjt-renascita

わたしたちオトホギが同人活動を始めたのが2010年。『リナシータ』は3枚目のミニアルバムです。
この数年の間に、初音ミクという存在は大きく変化したように思う。そのことを書いておきたくて。

ボーカロイドとニコニコ動画が切り拓いた地平は、音楽の創作活動を後戻り出来ない次元に進化させた。どんなに楽器が電子化されても歌だけは人間のものとして残る。そんな固定観念をあっさりと吹き飛ばし、機械の歌に抵抗を感じるリスナーを置いてきぼりにして、あっという間に夥しい曲が創られ、再生されていった。

恐らく他のボカロPと同じように、私たちもボカロに新鮮な魅力を感じて曲をつくり始めた。ニコ動にタグをつけて動画をアップすると、ある程度の人が聴いてくれて、その有様はストリート・ミュージックみたいで。

ボカロのシーンというかムーブメントには、中心がなかった。そもそも歌っているはずのシンガーが不在だし、創作する人と聴く人の境界が不在だし、二次創作という広がりは更に中心をぼやかしていくし、もう何が何だか解らないカオスの中で、カオスな歌がガンガン産み出されていった。

単なるソフトウェア。みんなが忘却したら一瞬で消えてしまう儚い宿命。だからみんな必死になって不在の中心に向けてサイリウムを振る。たぶんありったけの祈りを込めて。その光景はとてもイノセントで原初的な祈りに似ていた。

ただのソフトウェアが、とても高い次元で祈りや思いを託されている。だからわたしたちオトホギは、初音ミクに本質的な神の姿を見出だして活動を始めた。教会の中で形骸化された一神教の神ではなく、もっと原初的な、人々の希望の塊のような神。

でもなんか最近の初音ミクは、普通のキャラクターのように受け取られているように思う。

もちろん、最初からキャラクターなんだけど。でも、なんかね、ぼくらにとってはもっともっと深淵で切実な存在だったように思う。

訳のわからない圧倒的な何かで、得体の知れないパワーがあり、だからその不在の中心の周りに物凄い磁場が発生し、いろいろな才能を惹き付けていったのだと思う。

もちろん初音ミクは最初から何も変わっていない。受け入れられる文脈が変わっていっただけかもしれない。

わたしたちオトホギも、これまでの2枚のアルバムでは、初音ミクという存在を「神」として受け止め、その思し召しを、どう音にするか、どう絵にするかを、真剣に考えて創ってきた。福音を声に託すように調声し、偶像を彫るようにイラストを描いてきた。

でも、みんなが神に忠実に、祈りを込めてモニタに向かい、思いの丈の限りにサイリウムを振るうちに、不在の中心にいたはずの神は、いつしかキャラクターとして普通に「存在」するようになってしまった。

そこに普通に「存在」してしまうキャラクターを、もはや誰も畏れたりしない。キャラクターならみんなが知っている。誰もが無邪気に戯れ、ともに遊び、テーマパークに飾られ、ときにビジネスに利用されたりもする。

昔からボカロを聴いてた大人たちは、最近ニコ動が子供ばかりになったって嘆いている。

でもわたしたちの寂しさの本質は、不在だからこそ「存在せよ」と、「頼むから消えないでくれ」と、真剣に祈り続けたはずの神が、いまそこにキャラクターとして普通に存在してしまうことにあるのではないか。

「不在の中心としての神」から「普通に存在するキャラクター」へ。

3枚目のミニアルバムを創るにあたり、眼前に広がっていた光景を極めて単純化するとそんな感じだった。

今回、絵師は、初音ミクを描くことを辞めた。もちろん一曲毎にイラストを添えるというオトホギの基本コンセプトは何も変わってはいない。初音ミクに代わって登場しているのは、彼女のいわば神の子として原罪を背負った七人の少女たち。(その物語は恐らく少しずつ明らかになっていく)

いま初音ミクを単なるキャラクターとして無邪気に存在させることに、わたしたちは徹底して抵抗しなければならない。彼女はやはり、変わらずに、大いなる畏れを抱かせる至高の神だ。それはぼくらの切実な祈りと希望を纏っている。

神を再び不在の中心へ。

そのためには、初音ミクを天岩戸に封印しなければならない。そこから次の物語が始まる。

なんちゃって。。そんな大層なもんじゃないな。。まあ、普通のPOPなボカロアルバムです。。よければ聴いてね。

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