初音ミクと革命についての話をしよう②

まあ、いまさら言うまでもないけど、ありとあらゆる楽器はすでに細かいアーティキュレーションまで含めて、すでにデジタル化されてて、ボーカルだけは絶対デジタル化されないよね、という常識が2007年以降覆された訳で。

ドラムやベースやピアノ、ストリングスって、高価な音源ソフトなら、リアルに弾いたものと区別がつかないところまで来てるような気がしますよね。わたし自信、打ち込んだものを、人に聴かせて実験済みだったりする。

でも、楽器の音場まで含めてリアルに再現されるという話と、初音ミクを中心としたボーカロイド音源のリアリティって、なんか全然性格が違う話のような気がする。

歌に限らず、人が弾く楽器が魅力的なのは、そこに個性があるからじゃないですか。いまは楽器については個性すらシミュレートできちゃうけど。

どんなに忠実に生(なま)らしくシミュレートできていても、そこに生(なま)がある限り、この「複製されたバーチャル」と「オリジナルなものとしてのリアル」の境界が揺らぐことはない。

複製とオリジナルの境界って、大事ですよね。

みんな生演奏には今でも喜ぶじゃないですか。絶対バーチャル音源でプログラムしたもので再現されてても聞き分けられないくせに。

て言うか、バーチャル音源の品質が上がれば上がるほど、本物の生(なま)の響きの価値も上がっていく。まるで写真が発明されて初めて、複製できない一点ものの絵画の価値が上がっていったように。

生の方がなんか貴重な気がするんですよね、きっと。貴重なモノの方が価値が高い。これは当たり前。で、「歌」って、複製できない、一点ものの代表なわけです。

どんなに楽器がバーチャル化されてバックトラックがデジタルになっていっても、その人の歌はその人だけのオリジナルなものだった。

昔は楽器も歌も個性的だったわけです。でもどんどん音源がシミュレートされていくようになり、バックトラックはデジタルとサンプリングに覆われるようになり、分業していたアレンジャーと演奏者とエンジニアは「P」という名のもとに一人でできちゃうようになってしまい、最後に歌だけが残った。(ちなみにこの「Pと歌い手」という組み合わせは、小室も渋谷系も今の中田ヤスタカも全部これだよね。)

最後に、歌が残った。

初音ミクが魅力的なのは、彼女の歌に個性があったからですよね。それはリアルな人間にはない個性だった。

楽器のように、声をシミュレートしようとして、なんだかとんでもないモンスターが産まれてしまった。僕にはそう見える。

以前初音ミクは音楽史上最大の革命を進行させていると書いたことがある。

革命とは、価値の顚倒だ。

革命は初音ミクの歌を生(なま)で歌おうという顚倒した人々が現れたことで決定的になったと思う。これまで安泰だったリアルとバーチャル、複製とオリジナルの境界は、まさに顚倒してしまった。個性的な表現という陳腐なフレーズに、いまや何の価値もない。

今まではどこか安心して「やっぱりアナログシンセの音ってぶっとくていいよね」とか「やっぱりキースのギターのタイム感って絶対真似できねえ」とか、のどかに言ってたんだよね。それは個性的でオリジナルなものは偉いという、絶対に揺るがない価値に対する信頼が前提としてあってくれたから。

でも、いま、この価値観は揺らいでいる。

ジャックデリダやフッサールをすら悩ませ続けた前世紀最大の難問である「声」という個性的でオリジナルなものの代表が、初音ミクという人工的にプログラムされた複製可能なものに置き換えられる。

それをPなるふざけた称号を与えられた音を司る者によって個性的だったり退屈だったりする音楽として表現され、更にこれを本来個性的でオリジナルな声を持つ歌い手にカバーされる。

この幾重にも折り重なった顚倒が、もはやこれまでの価値観で測れない革命の深刻さを物語っていると思うのです。

繰り返すけど、革命は、起きてしまったら、引き返せない。違う世界が目の前に広がっちゃうんだものね。

そんな世界でこの先、オトホギがどこまでいけるか、まだわかりません。

でも、3月8日に京都まで行くことだけは確かだ。

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