『黒子のバスケ』と存在感の薄さ

たったいま、黒子のバスケを観てて、もちろん普段から毎回観ているわけではないからなんだけど、ああ、回想シーンなのか、って気がつくまでに、すごく時間がかかりまして。

最近のアニメは、日常の裏側に非日常の不気味な世界があり、うさぎや熊などのファンシーな動物に媒介されながら、制服を着たまま血みどろの殺し合いをするような内容のパターンと、一瞬で起きるスポーツのひとコマの駆け引きを、スローモーションでひたすら引き伸ばしながらカタルシスを最大化するような内容のパターンとが、極めて多いような気がするのだけど、たったいま観た『黒子』はもちろん後者で。でも印象に残ったのは、物凄く意図的に「気配がない」「存在感が薄い」ことを主人公の特性として描こうとしていることで。

それは確かに新しいかも。というか、だからみんな好きなのかもね。主人公的な「情熱」と無縁のネガな場所に主人公を置きながら、とても情念が渦巻く世界を照らし出すというところが、なんかね。

初音ミクも、ある意味で情念から開放されている存在なわけで。

例えば何らかの上昇志向なんかを伴う人格を持つヒューマンネイチャーが歌っていたら、わたしたちはきっと、こんなに彼女に思い入れを持たないよね。と思う。

そんなアニメを観ている暇があったら、ニコニコ超会議の準備をしなければならんのだけど。

2ndミニアルバム『Eulogia』アマゾンで好評発売中!!

クロスフェードはこちら!!