二重の静謐の向こう側にある躍動

少し前に「箱根彫刻の森美術館」で観た篠山紀信の写真が忘れられず。

篠山紀信の写真は物心ついた時というか、つく前から女性タレント達の艶かしい姿とともにあって。

写真よりもその先にいる被写体に目を奪われ興奮する思春期を過ごした者としては、篠山紀信というアイコンは、女性を艶かしく撮影する人として以外の認識をしたことがなかったわけで。

むしろ篠山紀信よりもシャレ山紀信の方が馴染みが深かったわけで。

私は昔から絵画や写真や彫刻に対する感性は欠けていると認識していまして。

小説にしても漫画にしてもアニメにしても映画にしても芝居にしても、始まりがあって、終わりがある。

でも絵画や写真や彫刻は、ただ黙ってずっとそこにある。

音楽は始まってから数分もすると、どんなに終わらないでくれと念じても、必ず終わる。

映画も、芝居も、どうか終わらないでくれと、もっと観ていたいと、何度思ったことか。

始まりがあって、終わりがある。

その中にありとあらゆるものが封じ込めらているから、カタルシスがあり、感動がある。

私はそのような作品がずっと好きで、絵画や写真には、達者だな、うまいな、と思っても、魂の底から揺さぶられるというような経験はほとんどしたことがなかったんですね。

自分は絵画や工芸に対する感受性が根本的に欠けている。これは自分のコンプレックスであり、だからこそ無意識に芝居や音楽を芸術として優位に置いてきた。

さて。で。

彫刻の森で観た篠山紀信の被写体は、文字通り彫刻なわけで。

行った人はよく知っていると思っていますが、戸外に置かれた彫刻はもちろん1ミリも動くことなく、そこに佇んでいるわけで。

それでも四季折々の風情の中で、彫刻は時に思いもしない表情を見せることがあると。きっとそれが戸外に作品を置くこの美術館の白眉だろうと、それは想像がつくわけです。

自分も静止しているものへの感受性を根本的に欠いていることを自覚しながら、そういうものを見て回る。

彫刻を見ていると気がつくのですが、そこにはある種の「躍動」が封じ込められているわけです。

動かないからこそ、躍動や生命観や有機的な何者かを感じるという逆説が、彫刻の面白いところなのだなと、それは見てて思うわけです。

そして、その「躍動」を「静謐」の中に封じ込めた彫刻という作品を、篠山紀信はさらに写真というフレームの中に封じ込めるわけです。

言ってみれば「二重の静謐」

始まりも終わりもなく、静止している無機的な物体を、始まりもなく終わりもないワンショットの中に、収めていると。

でもね、なんか全然ちがうんです。

篠山紀信の写真に収められた瞬間に、それはありえないくらい躍動しているんです。艶かしいんです。もう本当に、動いているんです。生きてる。生きまくっている。

静止しているからこそ、それも二重に静止しているからこそ、物凄いエネルギーというか、運動を感じるわけです。

止まっている彫刻を、ここまで艶かしく撮影するこの写真家とは一体何者なんだと、改めて深くそう思ったわけです。

まあ、そういう写真を観て、今更ながらようやく、写真というものの凄さ、彫刻というものの凄さを、思い知ることになったと。

最近、新しい動画を作っているのですが、とにかく動かしたくなるんですよね。素人だなと、我ながら思います。

止まっているところにこそ、躍動が生まれるのだなと、改めて感じ入っている、今日この頃です。

それにしても、物凄く久しぶりにブログ更新した。。。