「奏でる」ということ

誘われでもしなければなかなか巡り合えない音楽というのは何も期待せずに出掛けるだけに意外な発見に満ち溢れていたりする。

ピアノアンサンブルのエクスポジションと記された「樟」なるタイトルの、もちろん何と読むかわからなかったのだけど、途中のMCでどうやら「くす」と呼ぶとわかったコンサートも、特に何の予備知識も何の期待もないまま出向いたところ、全編にわたって向かい合わせに置かれた二台のグランドピアノからひっきりなしに聴いたことがない音が紡がれるという、なんだか凄いコンサートだった。

そういえば普段コンサートに置かれるグランドピアノは、それが一台なら常に向かって左に奏者が座ることになり、ということは必ず低音側がステージの奥に、高音側が手前にくる形になっていて。すべからくピアノの音響版(蓋ね)は高音側からしか開けることができず、だから向かい合わせに置かれて右側に奏者が座ることになるもう一台のピアノの音響版は全部はずしてしまうしかないうえに、低音部がステージ前方に向けられるので全然違う響き方をするのだという単純なことに気づいたのもはじめてで。

例えばバッハを、リストを、シューマンを、二人の弾き手が二台のピアノで奏でるわけで、とりわけ最後の「展覧会の絵」は計八人が交代で、クライマックスに至っては「2台12手」という圧倒的な音を出してくれたりする。

ピアノは鍵盤を押すと弦を弾いて音を出すメカニズムなのだから、誰もが皆、鍵盤を押しているという事実はあるのだけれど、何人かの奏者については、どう見ても鍵盤を押しているようには見えず、ピアノの中から音を「導き出している」ようにしか見えない。何かを押すという行為と、何かを奏でるという行為は、こんなにも違うのかと思う。

恐らくわたしもまた、常に真剣にこの無機質なコンピュータの中から、魂のかたまりのようなものを引き出そうとしているわけで。もちろん、どのような音も、真剣に音色を選びプログラムしさえすれば出せると信じているわけではないけど。

でも確かに、自分の肉体を動かして鍵盤を押しているはずにも関わらず、どうしてもそんな風に見えず、なにか神聖なる黒い曲線と艶に覆われたピアノなる箱から音を引っ張り出してくる人々がいるように、わたしもまたこの無機質なwindowsマシンから天使の最高の声を引き出せるようになりたい。

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