Kenny Garrettというサキソフォン奏者のライブを、ブルーノートに聴きに行った。
前半はカリプソ塗れのサウンド。ワンホーンのカルテットにパーカッションが入るという編成も、かぶった帽子の形状も、途中飛び出してくる「St.Thomas」のワンフレーズも、アルトにも関わらずすべてにソニーロリンズを連想したんだけど、ソプラノサックスを吹き始めた途端に、ああ、このスピリチュアルな感じは、やっぱりコルトレーンかファラオ・サンダース!って感じで。
ライブが跳ねたあと同行したトランペッターと飲みながら話しててふと、高校生のとき、わたしがまさにジャズが最高の音楽で、それ以外はクズだと思っていたときのことを唐突に思い出して。そのころわたしはジャズだけが「インプロヴァイズ」された音楽で、ジャズ以外の音楽はポップミュージックもロックもクラシックも、等しく「アレンジメント」された音楽にしか過ぎないと思っていて。音楽の魂はインプロヴィゼーションの中にしかあり得なくて、アレンジメントされた音楽は、それを事後的に再編成して複製してゆくものにすぎないと、本当にそんなくだらない事を考えていた。
その信念が崩れたきっかけは、恐らく、自分が「フリージャズ」に触れたときのことで。「フリーでなければならない」という制約が、目に見えないけれど存在していて、自分もフリーであろうと演奏しながら、それが少しも自由ではない、と激しく感じたことを思い出して。
楽曲全部を自由に演奏することと、決められた音符ひとつひとつを「自由」に演奏することと、そこには相対的な違いしかない。クラシックのように一つ一つの音符が楽譜に書き付けられていて、それを演奏することと、ざっくりとしたコード進行しか決められていないことと、自由の度合いにおいて貴賎はない。本当によい音楽は、インプロヴァイズされた音でも、アレンジメントされた音でも、わたしたちを確実に解放してくれる。昨日のKenny Garrettもまさにそうだった。
血がたぎり、触れるだけで迸るように、インプロヴァイズされた音楽を求めていたわたしが、いつの間にか「声」までコンピュータの制御化で完璧にアレンジメントされた音楽を創るために足掻いている。閃いたものをすぐに音にする行為と、紡ぎ上げた音の完成度をどこまでも高めていく行為の間にある振幅の大きさに、音楽の愉しみの奥深さを感じた夜。