CDを買ってもらうための、希少性の演出。初回限定版を何種類も用意したり、握手券や投票権を付けたり。昔はそのアーティストの音源ってだけで、とても価値があったはずなのにね。
新譜の発売を待ちわびて、千円札を握りしめ、いそいそと町のショップに出かける。ビニールの封を切り、指紋が付かないようそっとインナーを取り出し、傷がつかないようCDをトレイに入れ、流れてくる最初の音に耳をすます。
価値あるものとしての音楽ってそんな物理的な感覚と地続きだった。
いま音楽は「すでに」「つねに」「いつも」空気のように存在する。どんな音楽も、ほとんどがタダでネットで聴ける。産み出される情報の総量は20年前と比べて数百倍になり、音も映像も、ビット化され、コンテンツ化され、キュレーションされ瞬く間にネットを流通する。消費しきれない物量のコンテンツを前に、僕らは茫然とするしかない。
多すぎて溢れかえってるものに、誰もお金なんて払おうとは思わない。初回限定版や握手券をつけて、物理的な希少性をアピールしてみたところで、既にビット化されている音源そのものは物理的な制約をいくらでも飛び越え原理的にはその価値を下げ続ける。
初音ミクはそんな状況の中で登場した。あっという間に、タダで聴ける音楽がいたるところで産み出された。凄まじい量の音楽が動画を伴ってアップされ、誰もが自由にそれを楽しむようになった。いまや「ボカロしか聴かない小学生」という新しい人種さえ産み出している。ニコ動でVOCALOIDタグが付けられた作品はすでに約40万件にのぼっている。
初音ミクは、音楽の価値を、更に下げたのだろうか。
多すぎて溢れかえってるものに、誰もお金なんて払おうとは思わない。確かにそうだ。でも、そこに「価値」がないわけではない。きっと僕らがいそいそとショップへ向かったのと同じような気持で、みんなディスプレイの前で新しい曲と出会っている。例えば真夜中過ぎに数人しか集まらないニコ生の画面から流れてきた新しい曲に息を呑む瞬間を味わったことがある人は、それが、まさに、金で買えるものではないことを知っている。
だからお金が払われなくても、対価はちゃんとコメントで支払われる。「うぽつ」というただひとことの貴重さは、ダウンロードで支払われる幾ばくかの収益なんかより重い。
どれほど音楽が溢れ、空気のように存在するようになっても、わたしたちが作った音楽はわたしたちだけのものだし、それを聴く人にとって、その歌はその人だけのOne and Onlyなもの。その体験のなまなましさだけが、創るものと聴くものを同時に解放する、って、そんな風に思ってます。
だから、タダで楽しむことも、ちゃんとパッケージを買って楽しむことも、どちらも貴重。ちなみにオトホギの音源の多くは動画にして公式サイトとYoutubeとニコ動にアップしています。ダウンロード販売はいまのところしていません。でもCDは販売しています。ちゃんと時間をかけて創り、最高のデザインの装丁に包んでお届けしています。
つまり何が言いたいかというと、、、、
よろしければCD買ってください。
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BLOG更新しました!『いくらでもタダで聴ける音楽があるのにお金を払ってCDを買う理由』http://t.co/wCTN4CFkgp
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