わたしはレイヤーではない。
でも身近にレイヤーがいる。彼等は独特の美学を持っている。
これは現在においてとても貴重な美学だと思う。
レイヤーたちが持っている美学を、徹底的に擁護、いや支持したい。
もちろん彼等は誰かに擁護されたり支持されるために、ウィッグを整え衣装に針を入れているわけではない。
それでも、誰かがちゃんと言語化する必要がある。
文化とは、そういうものだ。
レイヤーは、静止していることに拘る。そんな風に見える。
彼等はカメラの前で最高の一瞬を収めることに拘る。
ビデオで撮られることを前提にするレイヤーは、あまりいないような気がする。
キャラクターがオリジナルで、レイヤーはその二次創作ということになる。
二次創作は、常にオリジナルに対する批評を含む。批評という概念は難しい。
それは批判や模倣とは圧倒的に違う。
彼等は一瞬を永遠へと封じ込める。
ここにレイヤーの美学のすべてがある。
どんな物語にも、はじまりがあって終わりがある。
それはとても儚い。
どんなに愛を持って接しても、
どんなに思い入れをもって体験しても、
必ず終わる。
誰もが説話論的な持続に対して、
何かが終わってしまうことに対して、対抗しようとする。
それが新しい何かを産みだす。
批評とはそのような態度のことだ。
頼むからこの物語を終わらせないでほしい。
頼むからこの輝きを止めないでほしい。
小説でも漫画でもアニメでも映画でもドラマでも、
最高の作品に出逢うとき、わたしたちはそんな風に思う。
しかしそれは不可能だ。
それでも世の中には素晴らしかった作品の続編が
次々と産み出され、失望の中でオワコンと化してゆく。
物語から、一瞬の永遠を抜き出す。
その輝きを、その美しさを、一瞬に封じ込める。
たったひとつのショットに、すべてを託す。
これは絶望的な試みだ。
レイヤーたちは、自分のレイヤーとしての「旬」を誰よりも意識している。
物語も、そして自分自身も、いつか終わってしまう。
この圧倒的な絶望に、全身全霊をこめて対抗する。
ここに極めて高度な批評が産まれる。
もしかしたら当のレイヤー達でさえ、
この高度な批評精神と現代におけるもっとも純度の高い表現活動に自分が組していることに気がついていないのかもしれない。