岡崎体育の話題になっている「MUSIC VIDEO」のMVを、純粋に、とても感心しながら観た。
いい曲ですよね。
単なる「ミュージックビデオあるある」として、やり過ごしたほうがスマートなんだろうけど、わたしは蓮實重彦の「物語批判序説」に出てくる『紋切型辞典』を思い出してしまいまして。
「ひとたびこれを読んでしまうや、ここにある文句をうっかり洩らしてしまいはせぬかと恐ろしくなり、誰ももう口がきけなくなるようにしなければなりません。」
フローベールの遺稿の中から見つかったこの辞典が意図していたことは、明白に作品の中に批評的な視座を持ち込むことだったと思われ、それが一連の岡崎体育のMVづくりとも通底しているなと。(ちなみに「物語批判序説」においてフローベールの話はほんのイントロダクションで、中身は物凄く深いので是非一読をおすすめします)
以前に同じような感想を持ったのが『サルでも描けるまんが教室』。これもひとたびこれを読んでしまったら、ここに出てくるパターンを使ってマンガを描いたら恥ずかしいぞと、そういう効能を明らかに持っていた。それは本質的な批評が果たすべき役割が、作品の側に組み込まれて、しっかり機能するという貴重な現象だと思う。ちょうど最近出た『ゲンロン2』で小特集されている「現代日本の批評」の中でも『サルまん』が取り上げられてて、そうそう、って思った。
でもマンガは、あっけらかんと、ここに出尽くしているパターンをどんどん細分化していったかも。まだ『サルまん』が出た92年頃はまんがはまんがとしてひとつのジャンルだったからこそ、そういう批評的な視座が機能したのでしょうね。
そういえばミュージックビデオというのも、音楽の副次的な産物というか、私生児っぽいですね。
音楽自体はマンガ以上に細分化したデータベース消費に晒されているのに、岡崎体育のミュージックビデオあるある批評の射程は、すべてのジャンルにちゃんと届くというところが、一番凄いのかもしれません。
初音ミクはどうだろう。
まだ初音ミクという共通の文脈がかろうじて機能しているジャンルなのかな。もちろんわたしには、自分の作品の中にそのジャンルを解体するくらいに批評的な視座を持ち込むなんて真似、できませんけどね。