「わかる」とはどういうことか

簡単に、何かを、わかってはいけない。

「わかる」とはとても難しい行為だ。

わたしがそのことに思い至ったのは、22歳のときに読んだある哲学書だった。

尊敬していた先輩がいて、その人が、その著者だったかその本だったかを称揚していて、わたしもそれがわかりたくて、背伸びして読んでみた。

何が書いてあるのか、さっぱり解らなかった。序文を読み、第一章を読み、解らないから、もう一度読み返した。何か、大切なことが書かれているような感じはあったけど、何度読んでも解らなかった。

解らないから、すぐに眠くなって、その本は長いこと枕元にあって、しばらくは放置されていたと思う。

ある日、気まぐれに第三章を読んでみた。その章だけは、何故かちゃんと入ってきた。そのあと、改めて序文から読み返してみた。そこから、すべてが理解できるようになった。

このとき、自分の中に起きたことは、たぶん、自分の中にある、解釈の装置みたいなものが一度ぶっ壊されて、更新されたような感じなんだと思う。

この経験はとても貴重だった。

人は自分の中にある小さな解釈の装置の範囲の中でしか、何かをわかることはできない。

何かを「わかる」ということは、「わかる」とはどういうことかを含めて、わかることでしかあり得ない。わかった瞬間に、装置は更新される。

似たようなことは、量子力学をつくりあげる過程を記した文章の中で、ボーアかハイゼンベルクのどちらだったか思い出せないけど、書いていた。

「目からウロコが落ちる」程度の衝撃をもたらしてくれるような作品はたくさんある。

でも、それがすらすらと理解できてしまうようなものだったとしたら、それは、自分が既に持っている解釈の装置を補強してくれるものにすぎない。

わたしたちは、所詮たいした装置を持っていない。碌な経験もなく、数多あるすべての情報に目を通せるわけでもなく、これまで創られてきたすべての作品を観ることができるわけでもない。

だから、そう簡単にこの装置を信じてはいけないし、簡単に何かをわかってしまってはいけない。

世界には知らないものがたくさんあり、解らないものがたくさんある。自分の解釈の装置の外部にあるものに、共感なんてできないし、感動もできない。

何かに共感したり、感動したりすることには、実はクソほどの意味もない。

そんなことより、まだ背伸びをすることの方が大事だ。解りたいと、切望させてくれるようなものと出逢うことの方が大事だ。

本質的に凄い何かは、小さな解釈の装置を、ぶっ壊し、更新し、拡張する。

なんか、眠れないときって、変なことを書いてしまうなあ。。

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(画像は本文とは関係ありません。。。)