キズモノ

大好きな人 去っていくから
電車に乗って 遠くへ行くから
伝えたいこと 言えなかったから
大好きなのに 傷つけたから

真っ暗な宇宙漂ってる 無軌道に
天使が消えた町は とても暗くて

少しだけ今が減って
明日が増えればいいのにね

運命があるのなら
どうか少し教えてよ
そうすれば少しだけ
素直になれる

残るぬくもり 冷めてゆくから
潮騒の音 消えてゆくから
守られてたと 身に沁みたから
暗い河に 流されてくから

トンネルの中を歩いてる 手探りで
誰に抱かれていても ひとり寂しい

途切れてる線路の向こう
空につながればいいのにね

運命は変えられる
どうかそう思わせてよ
そうすれば少しだけ
素直になれる

(振り向かないで)(傷つけるから)
(問いかけないで)(わかってるから)
(わかってるから)(間違ってると)
(私だって変わりたいよ)

どれだけ涙流したら
終わりが来るのだろう

運命があるのなら
どうか少し教えてよ
そうすれば少しだけ
素直になれる

君は海の底

水面に映る星 煌いて
君の甘い香り 思い出した

撮りためた写真は
いつか色あせて

でも切り取られた時間はまだ
どこかへ繋がるのだろうか

君は逃げ出した あの夜に
寒くて悲しくて 震えていた

どんなに嫌われたって 
ぼくは忘れはしない
君には過去でも 僕には未来さ
こんなちっぽけな光でも

君は海の底でもがいてる
ひとりぼっちだと 思い込んだまま

空の星座に導かれて
君の運命ぜんぶ抱きしめて

水面に黒い影 広がって
君は心まで 飲み込まれて

小さな悲鳴は
あの日聞こえることはなく

でもはじめに助けてくれたのは
君の方だよ 忘れたの?

ぼくは決めたんだ 目を逸らさない
嘘も裏切りも 飲み込んでやる

どんなに嫌われたって 
君を迎えに行く
君の罪なら愛する理由さ
どれだけちいさな光でも

君は海の底で苦しんでる
息もできないままでひとり耐えている

ぼくにできるすべてのこと
君を愛するただそれだけ

愛の言葉だけが君を救う
嫌われても拒まれても怖くはない

空の星座に導かれて
ふたりはまた何度も出逢う

二重の静謐の向こう側にある躍動

少し前に「箱根彫刻の森美術館」で観た篠山紀信の写真が忘れられず。

篠山紀信の写真は物心ついた時というか、つく前から女性タレント達の艶かしい姿とともにあって。

写真よりもその先にいる被写体に目を奪われ興奮する思春期を過ごした者としては、篠山紀信というアイコンは、女性を艶かしく撮影する人として以外の認識をしたことがなかったわけで。

むしろ篠山紀信よりもシャレ山紀信の方が馴染みが深かったわけで。

私は昔から絵画や写真や彫刻に対する感性は欠けていると認識していまして。

小説にしても漫画にしてもアニメにしても映画にしても芝居にしても、始まりがあって、終わりがある。

でも絵画や写真や彫刻は、ただ黙ってずっとそこにある。

音楽は始まってから数分もすると、どんなに終わらないでくれと念じても、必ず終わる。

映画も、芝居も、どうか終わらないでくれと、もっと観ていたいと、何度思ったことか。

始まりがあって、終わりがある。

その中にありとあらゆるものが封じ込めらているから、カタルシスがあり、感動がある。

私はそのような作品がずっと好きで、絵画や写真には、達者だな、うまいな、と思っても、魂の底から揺さぶられるというような経験はほとんどしたことがなかったんですね。

自分は絵画や工芸に対する感受性が根本的に欠けている。これは自分のコンプレックスであり、だからこそ無意識に芝居や音楽を芸術として優位に置いてきた。

さて。で。

彫刻の森で観た篠山紀信の被写体は、文字通り彫刻なわけで。

行った人はよく知っていると思っていますが、戸外に置かれた彫刻はもちろん1ミリも動くことなく、そこに佇んでいるわけで。

それでも四季折々の風情の中で、彫刻は時に思いもしない表情を見せることがあると。きっとそれが戸外に作品を置くこの美術館の白眉だろうと、それは想像がつくわけです。

自分も静止しているものへの感受性を根本的に欠いていることを自覚しながら、そういうものを見て回る。

彫刻を見ていると気がつくのですが、そこにはある種の「躍動」が封じ込められているわけです。

動かないからこそ、躍動や生命観や有機的な何者かを感じるという逆説が、彫刻の面白いところなのだなと、それは見てて思うわけです。

そして、その「躍動」を「静謐」の中に封じ込めた彫刻という作品を、篠山紀信はさらに写真というフレームの中に封じ込めるわけです。

言ってみれば「二重の静謐」

始まりも終わりもなく、静止している無機的な物体を、始まりもなく終わりもないワンショットの中に、収めていると。

でもね、なんか全然ちがうんです。

篠山紀信の写真に収められた瞬間に、それはありえないくらい躍動しているんです。艶かしいんです。もう本当に、動いているんです。生きてる。生きまくっている。

静止しているからこそ、それも二重に静止しているからこそ、物凄いエネルギーというか、運動を感じるわけです。

止まっている彫刻を、ここまで艶かしく撮影するこの写真家とは一体何者なんだと、改めて深くそう思ったわけです。

まあ、そういう写真を観て、今更ながらようやく、写真というものの凄さ、彫刻というものの凄さを、思い知ることになったと。

最近、新しい動画を作っているのですが、とにかく動かしたくなるんですよね。素人だなと、我ながら思います。

止まっているところにこそ、躍動が生まれるのだなと、改めて感じ入っている、今日この頃です。

それにしても、物凄く久しぶりにブログ更新した。。。

春風亭小朝と首なしライダー

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落語心中を観るうちに、お、そうか、という感じで、芝浜とかそこらへんの古典落語をいろいろ観て、その流れで今日、思いたって浅草演芸ホールに行った。

私が入ったのは第一部の最後。お目当は第二部の春風亭小朝。11時半に入ったので、なんとか座れましたが、12時過ぎる頃には立ち見が出てました。

落語は、完全に「にわか」なので、何も詳しくないのですが、寄席に行きゃそんなことはどうでもいいですね。初席、ってのが、いつもの寄席のスタイルではなく、入れ替わり立ち替わり、多くの芸人が顔見せよろしく、極めて短時間でネタをやって帰っていく、って感じなんだ、というのも、観てればすぐにわかります。

もともとYoutubeで優に一時間はあろうかという古典落語を観て、そうそう、これこれ、と思いながら、その勢いで来てしまったので、ほんの五分ほどのネタで入れ替わっていく初席の、煌びやかではあるけど、芸をじっくり堪能するという感じにはならない舞台に、ああ、そうか、初席ってのは、こういう感じなんだ、と今更ながら学びながらも、うーん、休日にこのせわしなさを味わいに来たのではないんだけどな、なんて贅沢なことを思ったりして、それはまあ、自分の勉強不足なんで、これは場の雰囲気にまかせて楽しむのが粋ってもんですな。

終わった後は17時までドリンク全部250円の店で昼から飲んで改めて浅草という街の面白さ、魅力を堪能して帰ってきました。

まだまだ、未体験の面白いものって、たくさんあるなと。

それでいま「デュラララ」ってのを、今更ながら観直してるんですけどね、やっぱり面白いですね。実は大したことは起こっていないんだけど、街の景色も物凄く既知のものなんだけど、首からモヤッとしたものが出ている艶かしく肉感的な妖精ひとり登場させただけで、すべてが未体験な感じになる。

都市伝説のくせに、実体化しやがった、って感じ?
これこそ、実写でやられたら、つまんないだろうなー、って思う。

シュタゲのアキバ、デュラララのブクロ、オカルティックナインの吉祥寺、トーキョーグールの20区や11区というあたりの都市論、誰か詳細に分析してくれないかな。

タイムリープとか霊界のリアリティ

アマゾンプライムで「シュタインズゲート」を一気見したら、その足で「オカルティックナイン」がレコメンドされてくる。

よくできてますね。どちらもとてーも楽しみました。

シュタゲはアキバが舞台で。

でんぱ組.incの「アキハバライフ」も良かったけど、やはりまだまだアキバって最強のアイコンだと思う。アキバが出てくるだけで、なんかちょっと嬉しい。

シュタゲは評価高かったみたいだけど、オカルティックはどうなんでしょうね。

シュタゲも前半のかったるい感じとか、逆に攻めてるかもとか思ってたけど、このオカルティックも、ひたすら巨乳過ぎるキャラとか、受け入れ難い作画とか、普通には作らねえよ、って感じで、過剰にいきますよ、って感じで、結構好きなんですけどね。

過剰すぎるとこと、極めてクールなとこの、落差がいいすよね。好き嫌い別れるんだろうけど。

シュタゲはタイムリープ、オカルティックは霊界と、受け入れ難い事象がテーマのひとつになってますね。

で、なんか、そこらへんを、最近のアニメって、科学的に一生懸命説明しちゃいますよね。でも、個人的にはそういうの、どうでもいいな、って思ってしまう。

いやいやいやいや、この話、ちゃんと共感できてますから。どんなに不条理な設定でも、わたしたち、もう愛してますから、メッチャ好きですから。そんなに科学的に説明してくれなくても、絶対嫌いになったりしませんから!って、よく思う。

これまで、どれだけ素っ頓狂な設定や、狂いまくった作品に、俺たちがリアリティを感じて、わんわん泣いてきたと思ってんだよ、舐めんな、って話でね。

さあ、次は何を観ようか。

初音ミク(DTM)と落語あるいは身ひとつで世界を創る

ニコニコ超会議で歌舞伎があれだけ好評を博したわけなので、初音ミクが落語をやる日も近いんだろうなと。

でも落語って、やっぱりすごい。

何がすごいって、ひとりで全部やるわけだ。

しかもこの「芝浜」なんて軽く1時間近くあって。(とのむらさんって人に「この話、ええで」って教えてもらったんですけどね)

どれだけ場面転換するんだって話で。どれだけ登場人物いやがるんだ、って話で。まあ、上手い人がやると、本当に場面が変わる。なんか、背景も全部変わる。少しだけ声のトーン変えただけで、目線を動かしただけで、空気が、すこーんって変わる。。うーん。すごい。

これを、ツールといえば扇子一本、あとは身ひとつで全部アウトプットしてるわけだ。

ホント、身ひとつで世界一個を丸ごと創り上げるようなもんですよ、これは。

こちとらようやく4分の演目を一人で作詞作曲編曲ミックスマスタリング全部なんとか見よう見まねでできるようになったばかりだというのに。しかも、扇子一本なんてものではなく、あらゆる最先端のテクノロジーを総動員して、やっとですぜ。

最近じゃ「落語心中」なんて名作アニメもありましたが、あれ一話作るのに、何人かかってるんでしょうね。まあ、そのうち、アニメーションなんかも、一人で創れるようになるまで、テクノロジーは進化するんでしょうけどね。

なんか映像が派手になればなるほど、このシンプルな「身ひとつ」の世界と、どっちが豊かなんだろうかと、考えてしまいますな。

最近youtube観てたら、三代目志ん朝のと、立川談志のと、両者の「芝浜」が落ちてて。

いやあ、すごいですよ。なんか著作権的に色々ありそうなので、リンク貼りませんが、ググったらすぐ出てきますよ。

二人の芸には到底及びませんが、わたくしがつくった駄曲のリンクは、貼っておきますね。

「わかる」とはどういうことか

簡単に、何かを、わかってはいけない。

「わかる」とはとても難しい行為だ。

わたしがそのことに思い至ったのは、22歳のときに読んだある哲学書だった。

尊敬していた先輩がいて、その人が、その著者だったかその本だったかを称揚していて、わたしもそれがわかりたくて、背伸びして読んでみた。

何が書いてあるのか、さっぱり解らなかった。序文を読み、第一章を読み、解らないから、もう一度読み返した。何か、大切なことが書かれているような感じはあったけど、何度読んでも解らなかった。

解らないから、すぐに眠くなって、その本は長いこと枕元にあって、しばらくは放置されていたと思う。

ある日、気まぐれに第三章を読んでみた。その章だけは、何故かちゃんと入ってきた。そのあと、改めて序文から読み返してみた。そこから、すべてが理解できるようになった。

このとき、自分の中に起きたことは、たぶん、自分の中にある、解釈の装置みたいなものが一度ぶっ壊されて、更新されたような感じなんだと思う。

この経験はとても貴重だった。

人は自分の中にある小さな解釈の装置の範囲の中でしか、何かをわかることはできない。

何かを「わかる」ということは、「わかる」とはどういうことかを含めて、わかることでしかあり得ない。わかった瞬間に、装置は更新される。

似たようなことは、量子力学をつくりあげる過程を記した文章の中で、ボーアかハイゼンベルクのどちらだったか思い出せないけど、書いていた。

「目からウロコが落ちる」程度の衝撃をもたらしてくれるような作品はたくさんある。

でも、それがすらすらと理解できてしまうようなものだったとしたら、それは、自分が既に持っている解釈の装置を補強してくれるものにすぎない。

わたしたちは、所詮たいした装置を持っていない。碌な経験もなく、数多あるすべての情報に目を通せるわけでもなく、これまで創られてきたすべての作品を観ることができるわけでもない。

だから、そう簡単にこの装置を信じてはいけないし、簡単に何かをわかってしまってはいけない。

世界には知らないものがたくさんあり、解らないものがたくさんある。自分の解釈の装置の外部にあるものに、共感なんてできないし、感動もできない。

何かに共感したり、感動したりすることには、実はクソほどの意味もない。

そんなことより、まだ背伸びをすることの方が大事だ。解りたいと、切望させてくれるようなものと出逢うことの方が大事だ。

本質的に凄い何かは、小さな解釈の装置を、ぶっ壊し、更新し、拡張する。

なんか、眠れないときって、変なことを書いてしまうなあ。。

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(画像は本文とは関係ありません。。。)

オトホギ=初音ミクの新曲「君は海の底」をアップしました

先日発売したミニアルバム『リナシータ』の収録曲で、一番最初につくったのは、前回アップした「キズモノ」で、その次に出来たのが、今回アップした「君は海の底」っていう曲。

この二曲は、ひとつの物語の表と裏になってまして。

少しまえ「キズモノ」を丁寧に聴いていただいた方に、「この曲って、震災がモチーフになってます?」って看破されました。まさにその通りです。
ちょっとテーマが、深刻なんですよね。。
深刻なテーマを、物凄くポップに仕上げていきたかったんだけど、できてますかね。。。

 ぼくは決めたんだ 目を逸らさない
 嘘も裏切りも 飲み込んでやる

 どんなに嫌われたって 
 君を迎えに行く
 君の罪なら愛する理由さ
 どれだけちいさな光でも

よろしければ聴いてください。

初音ミク新曲動画制作中。After Effectsは奥が深すぎて人生の時間足りない


ひとりでPCの画面に向かっていると、あっという間に数時間経ってる。
未熟なりに、つくってると、こういうの表現できないかな、って、いろいろ欲が出てくる。
そのやり方探しにチュートリアルを検索してると「おや、こんなこともできるのね」ってな発見がある。
で、その通りやろうとして、全然うまくいかず、落ち込む。
そんなのの繰り返し。
そもそも曲つくるだけでも、そんなのの繰り返しなのに。
自分でミックスやるようになり、曲つくるよりミックスに時間かかるようになり。
マスタリングも自分でやるようになり、ミックスより時間かかるようになり。
ほんの出来心で始めたはずの動画に、今度は曲作りより、ミックスより、マスタリングより、時間かかるようになり。
なに、やりたいんだっけ。
まあ、我等が絵師、ヲイカワが描く絵が、やはり好きなので、魅力的なので、とにかく少しでも良く見せたくなると。
まあ、頑張ってつくってます。乞うご期待。

10月30日、M3初参戦


オトホギ初めてのM3参加。

新譜はありませんが、今まで一回しか頒布する機会がなかった『よみびとしらず2012-2014』を、9枚だけ持っていきます。

これ、いつつくったんだっけな。
『アストラル』と『Eulogia』のアウトテイクが4曲ほど。。

サカナの骨の髪飾りは「メロディア・フィッシュ」のアカペラバージョン用に絵師が描いたもの。

これ、気に入ってるんですよね。なぜかジャケットは色違いで2種類ある。

コ-30a,bです。よろしければ、遊びに来てくださいね!