初音ミクとIAの少しだけ百合っぽい組み合わせ

オトホギの曲の中にも、初音ミクとIA-ARIA ON THE PLANETES-を組み合わせた曲が増えてきました。

はじめてメインボーカルにIAをフューチャーしたのは1stミニアルバム『アストラル』に収録された「Blue Nude」かな。

残念ながら動画化していないので、今のところアルバムでしか聴けません。スローナンバーでテーマをIAが、サビをミクさんが歌うのですが、ユニットのメンバーに「ミクオで一曲つくれ」と要請されてつくったので、最初は男女が掛け合うデュエットソングだったのですが、リリースのときミクオの部分をIAに差し替えたんです。

IAのルックスは巻き髪のとても女子力が高そうな雰囲気ですが、わたしはその声に少し中性的なものを感じています。だからIAとミクとの組み合わせは、ちょっと百合っぽい雰囲気が出てくる気がして好きなのです。そんな風に思っているのはわたしだけかもしれませんが。

実は1stアルバムではもう一曲、「灘御霊」というナンバーのバックコーラスで、ひっそりとIAが歌っています。続く2ndミニアルバム『Eulogia』に収録されている「レクイエム」でも、同じくバックコーラスでIAが歌っています。少し低めで存在感が欲しいときは、IAに歌っていただくことが多いのかも。

最初からIA-ARIA ON THE PLANETES-の声を全面的に必要としてつくったのは、2ndミニアルバムのタイトル曲が初めてかもしれません。この曲では初音ミクSWEETにも、初めて登場していただきました。

さて、今度のニコニコ超会議の超ボマスには、IA-ARIA ON THE PLANETES-が全編リードボーカルを取る初期のナンバーをメイントラックにした未発表曲集を持って行きます。26日(日)う15,16です。是非遊びに来てくださいね。

2ndミニアルバム『Eulogia』から「Eulogia」

1stミニアルバム『アストラル』から「灘御霊」

4月26日(日)超ボマスう15,16限定

さて、超ボマスのシーズンですね。今年も、楽しみにしています。ほんとに。

今回も、だいたいこのシーズンの発売を目指して、新譜の制作をしており、早く聴いていただきたい歌も出来上がりつつあるのですが、ちょっと皆様にお披露目するのはもう少し先になりそうでして。例えば最近大好きな「初音ミクDark」の声を、オケに馴染ませるのに何だか時間がかかったり。。。やはりひとつの歌を仕上げて送り出すのは、奥が深いと実感しておるわけでして。

4月26日には、これまで2枚のアルバムを創っていく過程で、アルバムに収まらなかったものや、違うバージョンのものを、新たにミックスし直して持っていきます。ほんの数曲ですが、とても大切に創りあげた曲です。パッケージは極めて簡易なものになるかもしれませんが、会場限定の一期一会ということでお赦し賜りたく。

1st 「アストラル」 クロスフェード

2nd 「Eulogia」 クロスフェード

Kenny Garrettのインプロヴァイズされた音楽と初音ミクのアレンジメントされた音楽

Kenny Garrettというサキソフォン奏者のライブを、ブルーノートに聴きに行った。

前半はカリプソ塗れのサウンド。ワンホーンのカルテットにパーカッションが入るという編成も、かぶった帽子の形状も、途中飛び出してくる「St.Thomas」のワンフレーズも、アルトにも関わらずすべてにソニーロリンズを連想したんだけど、ソプラノサックスを吹き始めた途端に、ああ、このスピリチュアルな感じは、やっぱりコルトレーンかファラオ・サンダース!って感じで。

ライブが跳ねたあと同行したトランペッターと飲みながら話しててふと、高校生のとき、わたしがまさにジャズが最高の音楽で、それ以外はクズだと思っていたときのことを唐突に思い出して。そのころわたしはジャズだけが「インプロヴァイズ」された音楽で、ジャズ以外の音楽はポップミュージックもロックもクラシックも、等しく「アレンジメント」された音楽にしか過ぎないと思っていて。音楽の魂はインプロヴィゼーションの中にしかあり得なくて、アレンジメントされた音楽は、それを事後的に再編成して複製してゆくものにすぎないと、本当にそんなくだらない事を考えていた。

その信念が崩れたきっかけは、恐らく、自分が「フリージャズ」に触れたときのことで。「フリーでなければならない」という制約が、目に見えないけれど存在していて、自分もフリーであろうと演奏しながら、それが少しも自由ではない、と激しく感じたことを思い出して。

楽曲全部を自由に演奏することと、決められた音符ひとつひとつを「自由」に演奏することと、そこには相対的な違いしかない。クラシックのように一つ一つの音符が楽譜に書き付けられていて、それを演奏することと、ざっくりとしたコード進行しか決められていないことと、自由の度合いにおいて貴賎はない。本当によい音楽は、インプロヴァイズされた音でも、アレンジメントされた音でも、わたしたちを確実に解放してくれる。昨日のKenny Garrettもまさにそうだった。

血がたぎり、触れるだけで迸るように、インプロヴァイズされた音楽を求めていたわたしが、いつの間にか「声」までコンピュータの制御化で完璧にアレンジメントされた音楽を創るために足掻いている。閃いたものをすぐに音にする行為と、紡ぎ上げた音の完成度をどこまでも高めていく行為の間にある振幅の大きさに、音楽の愉しみの奥深さを感じた夜。

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「奏でる」ということ

誘われでもしなければなかなか巡り合えない音楽というのは何も期待せずに出掛けるだけに意外な発見に満ち溢れていたりする。

ピアノアンサンブルのエクスポジションと記された「樟」なるタイトルの、もちろん何と読むかわからなかったのだけど、途中のMCでどうやら「くす」と呼ぶとわかったコンサートも、特に何の予備知識も何の期待もないまま出向いたところ、全編にわたって向かい合わせに置かれた二台のグランドピアノからひっきりなしに聴いたことがない音が紡がれるという、なんだか凄いコンサートだった。

そういえば普段コンサートに置かれるグランドピアノは、それが一台なら常に向かって左に奏者が座ることになり、ということは必ず低音側がステージの奥に、高音側が手前にくる形になっていて。すべからくピアノの音響版(蓋ね)は高音側からしか開けることができず、だから向かい合わせに置かれて右側に奏者が座ることになるもう一台のピアノの音響版は全部はずしてしまうしかないうえに、低音部がステージ前方に向けられるので全然違う響き方をするのだという単純なことに気づいたのもはじめてで。

例えばバッハを、リストを、シューマンを、二人の弾き手が二台のピアノで奏でるわけで、とりわけ最後の「展覧会の絵」は計八人が交代で、クライマックスに至っては「2台12手」という圧倒的な音を出してくれたりする。

ピアノは鍵盤を押すと弦を弾いて音を出すメカニズムなのだから、誰もが皆、鍵盤を押しているという事実はあるのだけれど、何人かの奏者については、どう見ても鍵盤を押しているようには見えず、ピアノの中から音を「導き出している」ようにしか見えない。何かを押すという行為と、何かを奏でるという行為は、こんなにも違うのかと思う。

恐らくわたしもまた、常に真剣にこの無機質なコンピュータの中から、魂のかたまりのようなものを引き出そうとしているわけで。もちろん、どのような音も、真剣に音色を選びプログラムしさえすれば出せると信じているわけではないけど。

でも確かに、自分の肉体を動かして鍵盤を押しているはずにも関わらず、どうしてもそんな風に見えず、なにか神聖なる黒い曲線と艶に覆われたピアノなる箱から音を引っ張り出してくる人々がいるように、わたしもまたこの無機質なwindowsマシンから天使の最高の声を引き出せるようになりたい。

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2.5次元

ユリイカの四月臨時増刊が2.5次元なるものの特集だということを、今日知って、まあ、そもそも書店へゆく機会が圧倒的に減っているので、たまにいくといろいろな発見がありまして。ちなみにレギュラーのユリイカ4月の特集は「高峰秀子」で、このあたりの隔たりの半端なさもこのブランドの魅力だったりする。いいなあ、高峰秀子。

2.5次元。どうやら、「テニミュ」を中心としてアニメから派生したミュージカル周りの刺激的な動きと、演劇側から立ち上がってきた独自のムーブメントを括っているみたいだけど、なんか、二次元と三次元の間、って、もっと多様性があって、もっと混沌としてて、それがジャンルとして成立するのだとしたら、極めて、本当に極めて重要なポジションのような気がして。

そもそも、初音ミクがリアルな会場でライブをしているということからして、この「次元」に関する問題を超克しているからこそ刺激的だったりするわけで。

なんか、このあたり、2.5で括ることが正しいのかなあ。とか思ったりする。

関係ないけど、ユリイカって、なんか、凄く微妙なとこに、何かを放り込んでくるよね。わたしは、買ったことがないんだけど。

『黒子のバスケ』と存在感の薄さ

たったいま、黒子のバスケを観てて、もちろん普段から毎回観ているわけではないからなんだけど、ああ、回想シーンなのか、って気がつくまでに、すごく時間がかかりまして。

最近のアニメは、日常の裏側に非日常の不気味な世界があり、うさぎや熊などのファンシーな動物に媒介されながら、制服を着たまま血みどろの殺し合いをするような内容のパターンと、一瞬で起きるスポーツのひとコマの駆け引きを、スローモーションでひたすら引き伸ばしながらカタルシスを最大化するような内容のパターンとが、極めて多いような気がするのだけど、たったいま観た『黒子』はもちろん後者で。でも印象に残ったのは、物凄く意図的に「気配がない」「存在感が薄い」ことを主人公の特性として描こうとしていることで。

それは確かに新しいかも。というか、だからみんな好きなのかもね。主人公的な「情熱」と無縁のネガな場所に主人公を置きながら、とても情念が渦巻く世界を照らし出すというところが、なんかね。

初音ミクも、ある意味で情念から開放されている存在なわけで。

例えば何らかの上昇志向なんかを伴う人格を持つヒューマンネイチャーが歌っていたら、わたしたちはきっと、こんなに彼女に思い入れを持たないよね。と思う。

そんなアニメを観ている暇があったら、ニコニコ超会議の準備をしなければならんのだけど。

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3月8日はボーパラ関西  4月はボーマス超会議

オトホギです。

はじめて関西のイベントに参加します。
ボーカロイドパラダイス関西4。
場所は京都ですね。
みやこめっせ3F

さらに、超ボーマスにも出ます。
「THE VOC@LOiD 超 M@STER31」

楽しみ。

最近アップした「eulogia」。おかげさまで少しずつ再生回数伸びています。
みなさまありがとうございます。

ニコ動 → http://www.nicovideo.jp/watch/sm25498188

Youtube → https://www.youtube.com/watch?v=JI59xfNs-fM

初音ミクと革命についての話をしよう②

まあ、いまさら言うまでもないけど、ありとあらゆる楽器はすでに細かいアーティキュレーションまで含めて、すでにデジタル化されてて、ボーカルだけは絶対デジタル化されないよね、という常識が2007年以降覆された訳で。

ドラムやベースやピアノ、ストリングスって、高価な音源ソフトなら、リアルに弾いたものと区別がつかないところまで来てるような気がしますよね。わたし自信、打ち込んだものを、人に聴かせて実験済みだったりする。

でも、楽器の音場まで含めてリアルに再現されるという話と、初音ミクを中心としたボーカロイド音源のリアリティって、なんか全然性格が違う話のような気がする。

歌に限らず、人が弾く楽器が魅力的なのは、そこに個性があるからじゃないですか。いまは楽器については個性すらシミュレートできちゃうけど。

どんなに忠実に生(なま)らしくシミュレートできていても、そこに生(なま)がある限り、この「複製されたバーチャル」と「オリジナルなものとしてのリアル」の境界が揺らぐことはない。

複製とオリジナルの境界って、大事ですよね。

みんな生演奏には今でも喜ぶじゃないですか。絶対バーチャル音源でプログラムしたもので再現されてても聞き分けられないくせに。

て言うか、バーチャル音源の品質が上がれば上がるほど、本物の生(なま)の響きの価値も上がっていく。まるで写真が発明されて初めて、複製できない一点ものの絵画の価値が上がっていったように。

生の方がなんか貴重な気がするんですよね、きっと。貴重なモノの方が価値が高い。これは当たり前。で、「歌」って、複製できない、一点ものの代表なわけです。

どんなに楽器がバーチャル化されてバックトラックがデジタルになっていっても、その人の歌はその人だけのオリジナルなものだった。

昔は楽器も歌も個性的だったわけです。でもどんどん音源がシミュレートされていくようになり、バックトラックはデジタルとサンプリングに覆われるようになり、分業していたアレンジャーと演奏者とエンジニアは「P」という名のもとに一人でできちゃうようになってしまい、最後に歌だけが残った。(ちなみにこの「Pと歌い手」という組み合わせは、小室も渋谷系も今の中田ヤスタカも全部これだよね。)

最後に、歌が残った。

初音ミクが魅力的なのは、彼女の歌に個性があったからですよね。それはリアルな人間にはない個性だった。

楽器のように、声をシミュレートしようとして、なんだかとんでもないモンスターが産まれてしまった。僕にはそう見える。

以前初音ミクは音楽史上最大の革命を進行させていると書いたことがある。

革命とは、価値の顚倒だ。

革命は初音ミクの歌を生(なま)で歌おうという顚倒した人々が現れたことで決定的になったと思う。これまで安泰だったリアルとバーチャル、複製とオリジナルの境界は、まさに顚倒してしまった。個性的な表現という陳腐なフレーズに、いまや何の価値もない。

今まではどこか安心して「やっぱりアナログシンセの音ってぶっとくていいよね」とか「やっぱりキースのギターのタイム感って絶対真似できねえ」とか、のどかに言ってたんだよね。それは個性的でオリジナルなものは偉いという、絶対に揺るがない価値に対する信頼が前提としてあってくれたから。

でも、いま、この価値観は揺らいでいる。

ジャックデリダやフッサールをすら悩ませ続けた前世紀最大の難問である「声」という個性的でオリジナルなものの代表が、初音ミクという人工的にプログラムされた複製可能なものに置き換えられる。

それをPなるふざけた称号を与えられた音を司る者によって個性的だったり退屈だったりする音楽として表現され、更にこれを本来個性的でオリジナルな声を持つ歌い手にカバーされる。

この幾重にも折り重なった顚倒が、もはやこれまでの価値観で測れない革命の深刻さを物語っていると思うのです。

繰り返すけど、革命は、起きてしまったら、引き返せない。違う世界が目の前に広がっちゃうんだものね。

そんな世界でこの先、オトホギがどこまでいけるか、まだわかりません。

でも、3月8日に京都まで行くことだけは確かだ。

そう。ボーパラ関西参加するよ! 関西初!

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いくらでもタダで聴ける音楽があるのにお金を払ってCDを買う理由

CDを買ってもらうための、希少性の演出。初回限定版を何種類も用意したり、握手券や投票権を付けたり。昔はそのアーティストの音源ってだけで、とても価値があったはずなのにね。

新譜の発売を待ちわびて、千円札を握りしめ、いそいそと町のショップに出かける。ビニールの封を切り、指紋が付かないようそっとインナーを取り出し、傷がつかないようCDをトレイに入れ、流れてくる最初の音に耳をすます。

価値あるものとしての音楽ってそんな物理的な感覚と地続きだった。

いま音楽は「すでに」「つねに」「いつも」空気のように存在する。どんな音楽も、ほとんどがタダでネットで聴ける。産み出される情報の総量は20年前と比べて数百倍になり、音も映像も、ビット化され、コンテンツ化され、キュレーションされ瞬く間にネットを流通する。消費しきれない物量のコンテンツを前に、僕らは茫然とするしかない。

多すぎて溢れかえってるものに、誰もお金なんて払おうとは思わない。初回限定版や握手券をつけて、物理的な希少性をアピールしてみたところで、既にビット化されている音源そのものは物理的な制約をいくらでも飛び越え原理的にはその価値を下げ続ける。

初音ミクはそんな状況の中で登場した。あっという間に、タダで聴ける音楽がいたるところで産み出された。凄まじい量の音楽が動画を伴ってアップされ、誰もが自由にそれを楽しむようになった。いまや「ボカロしか聴かない小学生」という新しい人種さえ産み出している。ニコ動でVOCALOIDタグが付けられた作品はすでに約40万件にのぼっている。

初音ミクは、音楽の価値を、更に下げたのだろうか。

多すぎて溢れかえってるものに、誰もお金なんて払おうとは思わない。確かにそうだ。でも、そこに「価値」がないわけではない。きっと僕らがいそいそとショップへ向かったのと同じような気持で、みんなディスプレイの前で新しい曲と出会っている。例えば真夜中過ぎに数人しか集まらないニコ生の画面から流れてきた新しい曲に息を呑む瞬間を味わったことがある人は、それが、まさに、金で買えるものではないことを知っている。

だからお金が払われなくても、対価はちゃんとコメントで支払われる。「うぽつ」というただひとことの貴重さは、ダウンロードで支払われる幾ばくかの収益なんかより重い。

どれほど音楽が溢れ、空気のように存在するようになっても、わたしたちが作った音楽はわたしたちだけのものだし、それを聴く人にとって、その歌はその人だけのOne and Onlyなもの。その体験のなまなましさだけが、創るものと聴くものを同時に解放する、って、そんな風に思ってます。

だから、タダで楽しむことも、ちゃんとパッケージを買って楽しむことも、どちらも貴重。ちなみにオトホギの音源の多くは動画にして公式サイトYoutubeニコ動にアップしています。ダウンロード販売はいまのところしていません。でもCDは販売しています。ちゃんと時間をかけて創り、最高のデザインの装丁に包んでお届けしています。

つまり何が言いたいかというと、、、、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よろしければCD買ってください。

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