オトホギの絵師による手描き作品ギャラリー公開

7月15日に発売されるオトホギのニューアルバム『リナシータ』のアートワークには、オトホギの絵師によってスケッチブックに手描きされたものが使われています。

彼が描いている作品は、オトホギのものだけではありません。
描いているのは主に「動物」と「女の子」。

せっかくなので、しばらく毎日、BLOGで紹介していきたいと思います。

下書きなしの一発勝負。
まずは、彼の絵がどのようにして描かれているか、ご覧ください。

 

 

 

pjt-renascita

7/10(日)ボーマス35に参加します

7/10(日)ボーマス35に参加します。
新譜「リナシータ」も頒布いたしますので、よろしくおねがいいたします!

「THE VOC@LOiD M@STER35」
サークル名:オトホギ
配置:D13, 14
開催日:2016年7月10日(日)
場所:池袋:サンシャインシティ  ワールドインポートマート4階展示ホールA1
WEB:http://ketto.com/tvm/

otohogimap

7月15日 オトホギの新しいミニアルバムが発売されます

pjt-renascita

三枚目のミニアルバムを創り終えて以降、抜け殻になっている。

まだ動画の制作もしなきゃだし、ちゃんとプロモーションもしなきゃならないのに。。。

ミニアルバムと言っても、全8曲、すべてこれ以上できないくらいに精魂込めて創った。出来上がったのは、至って普通のボカロ曲。

至って普通、とわたしは思ってます。普通に、いい感じの歌が創りたかった。

ヤンスキー先生が創る素敵な歌詞に、一番いい形で、一番出したい音を重ねて、曲を創りたかった。オトホギの世界観は、彼のことばがなければ成立しない。

我らが絵師ヲイカワのアートワークは、ここのところ何が描かれても、わたしたちの想像を軽く超えてくる。

このアルバムに収めた「五分前まで」という曲は、アルバムの中核を成す一曲なんだけど、これのコンセプトビジュアルが出てきたときはマジでひとり絶叫した。

このアルバムを創るにあたって、わたしたちの眼前に広がっていた初音ミクを巡る光景は以前このBLOGでも書いた。

初音ミクが、凄い特別なものではなくて、とても普通のキャラクターになってきている、という話。

このアルバムも、なんか凄い曲をつくってやろうとか、世界を驚かせてやろうとか、底辺ボカロPに有り勝ちな大それた思いが、いつの間にか全部リセットされて、もう一度フラットに音楽に向き合う必要があったように思う。

だから、ここに出来た8曲が、いまのところ、オトホギの全部。

出ますよ、7月15日に!

肉とラーメンだけをひたすら食べるダイエットを考えた

a698460b-90a2-49a4-9a19-d17382699587

どうやら、太り始めている。

でも、肉とラーメンを食べることは、やめたくない。絶対に。

「肉、ラーメン、ダイエット」で検索してみたが、まあそんなダイエット方法、あるにはあるけど、どれも眉唾な感じ。

最近のダイエットは、食べたいものを食べる、我慢しない!と銘打った怠惰な人向けのものが多い。

でも、どうやら食べる順番は工夫しなければならないし、食べ過ぎたら翌日控えなければならないらしい。

挙句、具に野菜を足せ、とか、汁は絶対飲むな、とか、どこかで、必ず、好きなことを我慢させる方向に向かう。

確かに恐らく、欲望を、全部肯定したダイエット方法は、ないのかもしれない。

それでもわたしたちには、譲れない欲望がある。それだけは、全部肯定したい。そうでなければ、死んだほうがましだ。

肉とラーメンをひたすら食べることを肯定したダイエット方法は、ないものなのだろうか。

肉もラーメンも、こってりカロリーが乗っかってて、栄養バランスが超悪いところが、まさに快楽中枢を刺激するのだ、きっと。

だから、油を減らすとか、汁を飲み干すなとか、肉なら牛より鶏の方がいいとか、そんなものは全部、我が欲望からみれば邪道だ。全部食いたい。ひたすら食いたい。

本質的な欲望を、我慢してはならない。それがリバウンドという最悪な結果をもたらすということは、数々の先輩たちが前例として示している。

絶対的に、欲望を肯定する。

その代わりに、他のものは一切食わない、というのはどうだろうか。

肉と、ラーメンしか、食わない。

昼はラーメン、夜は肉。

朝は、どうせ起きられないし、テンションも上がらないから、食べない。

めちゃお腹がすいたところで、昼、がーっと、ラーメン。

ラーメンって、意外と具も多いし、基本の栄養素は全部入っている。毎日、昼はラーメン。

夜は、野菜も魚もご飯も食べない。ひたすら、肉(と、酒)

昼に、こってりラーメン食べてるから、夜の肉は、自然と量が減るような気がする。

たまに野菜とか食べようと思わないことが肝心。そうすると、味も、胃の調子も、中和されて、夜もたくさん食べれてしまうかもしれない。

夜は、大好きな、肉に、集中する。

焼き鳥屋なら、お通し食べずに串盛だけ。
ステーキなら、付け合せのポテトやバターソテー全無視。
たとえフルコースに出逢っても、肉以外には目もくれるな。

好きなものしか食べない。
昼はラーメン、夜は、肉。

重要なのは、好きなものを我慢して、嫌いなものを取り入れてバランスを取る思考から、好きなものだけを選びぬき、嫌いなものを徹底して排除する思考への切り替えだ。

好きなもの「だけ」を研ぎ澄ます。

いま、ラーメンと肉を引き合いに出しているが、これはもちろん、寿司でもいいし、餃子でもいい。

とにかく、それ以外食べない。

好きなもの「だけ」を研ぎ澄ます。

これがこのダイエット法の極意だ。

まず、好きなものしか食べない、という絶対的に形式化されたフェーズを突き抜ける必要がある。

そのうちに、なぜ自分がそれを好きなのか、という哲学的な問いが啓示として天から舞い降りてくる。

実に、人生のすべてに対する問いかけような、本質的な疑問だ。

ここに至って初めて人は、生きることの意味と、食べることの意味を知る。

生きることの豊かさと、食の豊かさを知る。

そして自然と、いつのまにか酒の肴に、たまには魚や野菜もいいかなと、こころから欲する瞬間が生まれる。

ここに至るまでに君は、好きなものを好きな量だけ食べるという享楽の中を通り抜けてきている。

もはや苦しくなるまで食べようとも思わない。

いつしか、栄養的にも量的にも、食のバランスは見事なまでに取れている…

おのが欲望をコントロールできるなどと自惚れないほうがよい。欲望はそんなに甘くはない。

欲望を無理に引き剥がしたり、欲望から目を背けたり、欲望がないフリを装ってみても、欲望は決しておまえから離れたりしない。

欲望に身を任せつつ、欲望の側が、おまえを解放してくれる時を待つのだ。

そのときは、必ず、必ず、訪れる。

だからそのときの訪れを信じて、食うのだ。ただひたすらラーメンと肉だけを。

ちなみに、7月15日に、新譜が出ます。内容はダイエットとは関係ありません。

オトホギ 3rdミニアルバム『リナシータ』 2016年7月15日 発売予定!

pjt-renascita

ちなみにBob Dylanの曲の中で何が一番好きかというと

ちなみに、Bob Dylanの曲の中で、何が一番好きかと聞かれたら『廃墟の街』だと答える。
本当のところ他にも好きな歌はたくさんあるけど、もし、訊かれたら、そう答える。

————-
カインとアーベルとノートルダムのせむし男
彼ら以外の全員が
いまはセックスしているか
でなければ雨が降るのを待っている
憐れみ深いサマリア人は
衣装の仕度をしながら
ショーの準備をしている
彼は今夜出かけるのだ
この廃墟の街で行われるカーニバルに
————-

詩の全部はこことか。

陳腐な自意識過剰のせいで動画に取り掛かれないわたくし

新しいミニアルバム『リナシータ』のいくつかの曲は、イラストが仕上がってきているので、早く動画にしてアップしたいのだけど、肝心の動画に取り掛かることができない。

動画って、オトホギの中では、そもそも、曲を魅力的に聴いてもらえて、絵を魅力的に見てもらえれば、いいよね、程度に思っていたんだけど。。。

なんか、それではすまないような気分に勝手になってしまっていて。。。今回の絵のチカラが半端なく凄すぎて、この絵に、もうちょっとしっかり向き合わねばならない、という思いもあり、なんだか動画を創れない。。。

前回だか、BLOGでも書いたけど、テレビでもYoutubeでもHULUでもNetflixでも、暇つぶしに点けてみれば、そこに凄まじく完成度の高いコンテンツが夥しい量で並んでいて。どれもマジでよく出来てる。。。

そんなのに比べれば、弱小同人サークルがフリーソフトでつくる動画など、端から足元にも及ばない。

そんなことは最初から解ってるんだが、いつの間にか自分自身が良質なコンテンツを見慣れてしまって、ハードルをあげちゃったのかもしれない。。。

そして、弱小ながらモノを創る身としては、せめて自分が設けたハードルくらい、クリアしないと、なんか納得いかないというか。。。いや、創る気がしないだけどいうか、なんかただの言い訳なんだけどね。。

少しでも多くの人に、この絵を観てもらいたいし、この歌を聴いてもらいたい。だからさっさと動画なんて適当でもいいから創っちゃってあげちゃえ、って思う。でも、自分の中にある何かが、半端なものを創るんじゃねえぞ、と、言っているような気もする。。

きっと、誰もが、こんな陳腐な自意識過剰な葛藤を乗り越えて、曲をアップしてるのだろうな。。反対に、こんな陳腐な自意識過剰のせいで、素晴らしい歌が未だ日の目を見ず、どこかに眠っているかもしれない。。

オトホギ 3rdミニアルバム『リナシータ』 2016年7月15日 発売予定!

pjt-renascita

たまたま河野裕とステイサムと西尾維新

img_0468.jpg

たまたま読んでみた河野裕の新潮文庫NEXが面白すぎて立て続けに階段島シリーズを一気読みしたけど、あくまで、おそらくたまたま、であって、この程度に面白い小説なら、きっと他にもたくさんあるのだろうなと思う。

 

HULUにはジェイソンステイサム主演の作品がたくさん上がっていて、たまたま立て続けにステイサム主演の映画を適当に観ていったけど、この程度のカタルシスをもたらしてくれるような映画は恐らく他にもたくさんあるのだろうと思う。

 

西尾維新はたまたま何作か読んだことはあるけど、他の数多ある推理作家とそう見分けがつくほど思いいれもなく、たまたま読んだいくつかの作品に感心したことは覚えているなと。

 

その西尾維新がどうやら原作らしい髪の毛が白い魅力的な女性を主人公に誂えた『掟上今日子の備忘録』なるテレビドラマも、これまたたまたまHULUで退屈しのぎに観始めたんだけど。

 

そんなたまたま観始めたあざとすぎる設定の作品に、毎回泣いてしまうほどに感動しているということは、どの友達にも言う気になれなくて。まあ、友達なんていないけどね。

 

他にもたくさんいいものがあって、それが日常的にたくさんたくさん生産されてるんだろうなって、そう思うので、わざわざ何かを必死に観なくても、常にそこそこの推理小説やそこそこのアニメやそこそこのステイサムやそこそこの西尾維新は常に途切れなくドバドバ供給されているはずで。

 

でも、それを観るのは、それに出逢うのは、たまたまなんだよね。

 

かつては、いい作品が創られる方が貴重だったはず。そっちが「たまたま」だったはず。いい作品が創られたとあらば、矜持を正して劇場に向かい、チャンネルを握り締めてテレビに向かい、予約するのももどかしくCDショップに向かったはずなんだけど。

 

いまは、たまたま出会ってしまうものが、ことごとく物凄くレベルが高い。何の苦労もせず、本当にたまたま、物凄くレベルが高いものに出逢えてしまい、それを心置きなく享楽できてしまう。先日小倉でたまたま観てしまった劇団☆新感線もそうだったけどね。

 

まあ、いずれにしても、掟上今日子なる探偵を主人公に据えた少々乱暴な作りの連続ドラマを8話まで観続けて、あと数話で終わってしまうことが悲しくて。もうあと数話であの美しい銀髪の探偵の美しい瞳を拝めなくなるのかと思うと、気が気でない。

 

繰り返すけど、他にもきっといいものはたくさんあるのだろうなと思う。その中で、たまたま、自分の魂を震わせてくれるようなものと出逢うんだけど、実はそれは「たまたま」であって、そこに本質を見出すのなら、他にもこんなのやこんなのや、歴史的に見るとこんなのがこんな文脈で存在しているのだよ、という説明は、最早何の意味も持たなくて。

 

それも良質なコンテンツの横溢がなせる業なのだろうなと。小説なり映画なり演劇なりアニメなり音楽なりライブなり更に他の細分化された何かに的を据えられればよいのだろうが、そうするつもりはまったくないな、なんか。

 

でもそのすべてに目を通すつもりもまったくないし、できるわけないので、これからも、ひたすら「たまたま」出逢ったものを愛で、享受し、偏愛してゆくしかないのだろうなと。

 

オトホギの、このアルバムなんかも、たまたまでよいので、誰かの目にとまればよいのだけれど。。。

「不在の中心としての神」から「普通のキャラクター」へ

pjt-renascita

わたしたちオトホギが同人活動を始めたのが2010年。『リナシータ』は3枚目のミニアルバムです。
この数年の間に、初音ミクという存在は大きく変化したように思う。そのことを書いておきたくて。

ボーカロイドとニコニコ動画が切り拓いた地平は、音楽の創作活動を後戻り出来ない次元に進化させた。どんなに楽器が電子化されても歌だけは人間のものとして残る。そんな固定観念をあっさりと吹き飛ばし、機械の歌に抵抗を感じるリスナーを置いてきぼりにして、あっという間に夥しい曲が創られ、再生されていった。

恐らく他のボカロPと同じように、私たちもボカロに新鮮な魅力を感じて曲をつくり始めた。ニコ動にタグをつけて動画をアップすると、ある程度の人が聴いてくれて、その有様はストリート・ミュージックみたいで。

ボカロのシーンというかムーブメントには、中心がなかった。そもそも歌っているはずのシンガーが不在だし、創作する人と聴く人の境界が不在だし、二次創作という広がりは更に中心をぼやかしていくし、もう何が何だか解らないカオスの中で、カオスな歌がガンガン産み出されていった。

単なるソフトウェア。みんなが忘却したら一瞬で消えてしまう儚い宿命。だからみんな必死になって不在の中心に向けてサイリウムを振る。たぶんありったけの祈りを込めて。その光景はとてもイノセントで原初的な祈りに似ていた。

ただのソフトウェアが、とても高い次元で祈りや思いを託されている。だからわたしたちオトホギは、初音ミクに本質的な神の姿を見出だして活動を始めた。教会の中で形骸化された一神教の神ではなく、もっと原初的な、人々の希望の塊のような神。

でもなんか最近の初音ミクは、普通のキャラクターのように受け取られているように思う。

もちろん、最初からキャラクターなんだけど。でも、なんかね、ぼくらにとってはもっともっと深淵で切実な存在だったように思う。

訳のわからない圧倒的な何かで、得体の知れないパワーがあり、だからその不在の中心の周りに物凄い磁場が発生し、いろいろな才能を惹き付けていったのだと思う。

もちろん初音ミクは最初から何も変わっていない。受け入れられる文脈が変わっていっただけかもしれない。

わたしたちオトホギも、これまでの2枚のアルバムでは、初音ミクという存在を「神」として受け止め、その思し召しを、どう音にするか、どう絵にするかを、真剣に考えて創ってきた。福音を声に託すように調声し、偶像を彫るようにイラストを描いてきた。

でも、みんなが神に忠実に、祈りを込めてモニタに向かい、思いの丈の限りにサイリウムを振るうちに、不在の中心にいたはずの神は、いつしかキャラクターとして普通に「存在」するようになってしまった。

そこに普通に「存在」してしまうキャラクターを、もはや誰も畏れたりしない。キャラクターならみんなが知っている。誰もが無邪気に戯れ、ともに遊び、テーマパークに飾られ、ときにビジネスに利用されたりもする。

昔からボカロを聴いてた大人たちは、最近ニコ動が子供ばかりになったって嘆いている。

でもわたしたちの寂しさの本質は、不在だからこそ「存在せよ」と、「頼むから消えないでくれ」と、真剣に祈り続けたはずの神が、いまそこにキャラクターとして普通に存在してしまうことにあるのではないか。

「不在の中心としての神」から「普通に存在するキャラクター」へ。

3枚目のミニアルバムを創るにあたり、眼前に広がっていた光景を極めて単純化するとそんな感じだった。

今回、絵師は、初音ミクを描くことを辞めた。もちろん一曲毎にイラストを添えるというオトホギの基本コンセプトは何も変わってはいない。初音ミクに代わって登場しているのは、彼女のいわば神の子として原罪を背負った七人の少女たち。(その物語は恐らく少しずつ明らかになっていく)

いま初音ミクを単なるキャラクターとして無邪気に存在させることに、わたしたちは徹底して抵抗しなければならない。彼女はやはり、変わらずに、大いなる畏れを抱かせる至高の神だ。それはぼくらの切実な祈りと希望を纏っている。

神を再び不在の中心へ。

そのためには、初音ミクを天岩戸に封印しなければならない。そこから次の物語が始まる。

なんちゃって。。そんな大層なもんじゃないな。。まあ、普通のPOPなボカロアルバムです。。よければ聴いてね。

小倉に出張したついでに観た劇団☆新感線


週末は北九州に出張。ついでに快晴だったので朝から小倉城をひとりでお散歩。

気持ちよかった。
すぐ近くのリバーウォーク北九州でお昼を食べようとしたら、なんとこの施設にある北九州芸術劇場大ホールで劇団☆新感線が公演してて、当日券があるというので、行ってきました。

乱鶯(みだれうぐいす)。

上演時間3時間半以上。予約していたフライトの時間をちょっと心配したけど、こんな機会を見逃すのはもったいない。

昔は頻繁に芝居を観てたんだけど、最近少し遠ざかっていて、少し前に野田秀樹の『逆鱗』を観て、やはり圧倒されて、やっぱりあらゆる総合芸術のなかでも芝居って一番カタルシスが大きいというか。

そんな風に感じてた矢先なので、本当ラッキーでした。

まあ相変わらず酷いストーリーに盛り上がる音楽、ケレン味たっぷりの乱暴な演出。大味にも程がある役者陣。もう何も変わらない、でもどこまでも進化する☆新感線。

なんか、すべてが、でかい。古田新太の顔くらい、いろいろでっかい。とにかく大道具が、まさに大道具。でかい。

でも描かれる江戸の庶民の感情の機微は細かい。稲森いずみの表情が可愛らしく哀しく儚く移り変わる様子が細かい。

まあ、最高ですな。そして病みつきですな。

先頃のニコニコ超会議で中村獅童と初音ミクの超歌舞伎が話題になりましたが、既に「超」歌舞伎は☆新感線が完成させてましたな。
あ、写真はなんも関係ない小倉の風景です。。