でんぱ組.incの新譜は最高でしたがそういう話ではなく

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先日たまたま相対性理論とBABYMETALとでんぱ組と、興味を持てそうなアーティストが立て続けに新譜を出していたので、買ったことをBLOGに書いたんだけど、そういえば友人数人といまどんな音楽を聴けばよいのか、という話を酔っぱらいながらしたことを思い出して。

あまり覚えてないんだけど、そのときの話は、昔は「いま聴くべき音楽」とでも呼べるようなものがちゃんと存在してて、そこそこ感度が高い友達に尋ねれば、似たような名前が返ってきて、共通の話題が形成されるという時代があったと。

でも今は古いものから新しいものまで関係なくフラットにずらっと並んでいて、時代もジャンルも関係なく消費できてしまう。そのときの友人達も、ひとりは戦前の歌謡曲がいい!と言い、ひとりはデスメタルばかり聴いてて、ひとりは日本の地方のラップが旬だと言う(ホントかよ)。

おそらくそれはアニメや漫画や映画やゲームも似たようなもので、ジャンルも時代も全部フラットに並んでいて、どのジャンルに取り組んでも、広大過ぎて、消費できる絶対量を超えている。データベース消費っての?

こんなことを書き始めているのは、BLOGに何を書こうか考えていて。

やはり「いま」書くべきことを書きたいじゃないですか。BLOGなんだから。書いたものはTwitterとかFacebookにも載るので「いいね」されたいじゃないですか。BLOGなんだから。

今回のように、たまたまいい新譜が重なると「いま」書くべきことがありそうな錯覚に陥るのだけれど。もちろん、でんぱ組.incの素晴らしいアルバムの出来については語りたい衝動に駆られるし、相対性理論の相変わらずぶりは、これはこれで貴重で素晴らしいものだとも思うのだけど、それは「たまたま、今」なのであって。

それと同時に、例えば最近わたしが観た映画は、今更ながら石井隆の「GONIN」二本とか(最近話題になってるやつじゃなくて90年代のやつね!)、今更ながらパトレイバー劇場版二本とか(超つまんなかった)、今更ながら「あの花」全話とか(涙でモニターが見えなかった)。

これは全部HULUに入ってて、連休中にあまりにも何もやる気がおきないときに(まあ一日の9割5分くらいは何もやる気が起きないのですが)、どれみよっかなー、ってパラパラ探してて行きあたったもので。

でもこんな「今更」な映画の感想を、今更ながらに書いても、絶対誰も興味持たないし、そんなだっせーBLOG書きたくないし(いま書いてるけど)。そもそも今更観てること自体ちょっと恥ずかしいし。

でも今のコンテンツの消費のされ方って、きっとほとんどこんな風なんだと思う。

だから幻想の同時代性に縋って内容が紡がれ、虚構のいいねを沢山得るようなBLOGの制度性から、わたしたちは解放されなければならない。

それでもやはり『あの花』を今更観て感動したって書くのは憚られるなあ。

小泉今日子と浜田真理子の『マイ・ラスト・ソング2016』に行ってきた

久世光彦が「もし最期の刻に一曲だけ聴くことができるとしたら、どんな歌を選ぶだろうか」というテーマで書き綴ったエッセイを、小泉今日子が朗読し、浜田真理子が歌うという『マイ・ラスト・ソング2016』に行ってきました。

このライブはそもそも歌について書かれた言葉あって、その言葉の魅力を、女優小泉今日子の素敵な声の語りと、歌い手&ピアノ弾きの浜田真理子の歌で綴るというライブなので、歌が主役というよりも、歌について語られた言葉が主役という、ちょっと捩れたところが魅力なんだと思う。

浜田真理子さんの歌をはじめて聴いたときも、何がこんなにいいのだか、わからないけど、物凄く感動した。そもそも歌の感動なんて、言語化しなくていいので、何でいいのか、なんて考えなくてもいいんだろうけどね。なんか、物凄く、いい。今回もいろいろな歌があった。

そもそも歌について語られた言葉に関するステージなので、歌も補完的な役割のひとつのはず。うたが一つの物語を持ち、その物語は久世さんの文章で物凄く魅力的に光ってて、それを小泉さんの素敵な素敵な声が増幅させる、と。

それを真理子さんの歌は、解放していく、というか。歌にまとわりついた意味や物語をもう一度浄化させて、そんなことがどうでもよくなるくらいにまで、うた本来の持つ、うたの一番歌っぽいところを引き出していくというか。だからこそ、久世さんが持つ世界と、小泉さんが持つ世界と、全部しっかり拮抗してあんなに素晴らしいステージが出来上がるのだなと。そんな風に感じました。

わたしを含め若いPたちがボーカロイドを使うのも、また全然違う意味で「歌」が持つ過剰な意味性を解放する試みだったりもすると思っているのですが、あの会場にボカロ聴いてる人はひとりもいなかっただろうなと。。

5月9日に、もう一回東京で公演があるそうです。本当に最高ですよ。

東大教養学部でボカロPによる「ボーカロイド音楽論」ゼミが開講してるらしい

少し前の記事で恐縮ですが、これ↓

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「初音ミクでエンタメはどう変わったのか? 東京大学初のボカロPによるゼミに迫る – 東大新聞オンライン」

もう始まっているのですね。とても聴講にいきたい。。この記事の前半の分析とか、鮮やかです。

「若い層の新しい購買意欲を刺激するより、既にモノを買うのが習慣になっている年上の層に、彼らが既に馴染んでいるものを売り込むほうが、ビジネス上得策だという発想になってきたんです。それ以降、社会全体が10代20代の消費をカルティベイトすることをほったらかすようになってきた。」

という記述があるんですが、ストーンズやスプリングスティーンのボックスが何万円もしたり、パチンコ屋にちょっと昔のアニメのコンテンツがずらっと並んだりとか、確かにそうだよねという思いが半分。

でももう半分は、スマートフォンとSNSがここまでひろがって、わざわざ金かけて消費に向かわなくても、至る所で若者であろうと40代であろうと、人々のリビドーを吸収してしまう装置が機能しているというか、わざわざ「消費」をカルティベイトする意義そのものがなくなってるってこともあるよなー、と。

あと、もちろんこのゼミにそんなつもりは毛頭ないことは予想できるのですが、やはり個人的にはボカロの世界は世代論では片付けてほしくないなと。まあわたしも世代としてはみ出しちゃってますが、実際にイベントへ出かけて淘汰されつつあるCDなんてものを売っていると、他のブースも含めて買っていく層の多様さに目が眩んだりして。。。あ、30日の超ボマスで買っていただいた皆さま、ありがとうございます!!!!

そんなわけで、その超ボマスでも頒布したCDは7月15日に全国発売です!

東京の真ん中の大きな森と相対性理論の新譜

またまた『ゲンロン2』の話なんですが、今回の特集が「慰霊の空間」というテーマで、そのアタマに中沢新一のインタビューが掲載されてて。

個体の死を超えるものとして、田邊元の「種の論理」と、最近の彼の『アースダイバー』の仕事に代表されるような「ジオ」の哲学と、二つのリソースから慰霊を語ってるんだけど、このなかで都市の中に抱えられた慰霊の空間として、明治神宮の森の貴重さが話されていて。

そうか、普通に都会の真ん中に存在して、生活のすぐ隣にあったりするので、意識したことないし、そういえばちゃんと行ったことないな、と思い、明治神宮に行ってみた。

たしかに、超でっかい。

今日は参拝ではなく、慰霊の森を体験する、という感じで。神宮をめぐるのではなく、森を歩き回る感じで。うん、確かに歩き回ってるだけで、なんか浄化されていく感じがする。気持ちいい。

でもすぐに疲れてビールとか飲んじゃうので、まあ慰霊もへったくれもないんだけどね。ちょうど結婚式をやってて、それを外国人観光客がバシャバシャ写真撮ってて。祝祭と観光が混在してるうえに、すぐ裏が原宿で、崇高さと猥雑さも隣り合わせてて、そういう感じも「一種のフラクタル性を持った中空構造」という中沢新一らしい言い回しがぴったりくるのかも。

そのまま渋谷のタワーレコードまで歩き、1階をふらっとまわった収穫が写真のCD。相対性理論の新譜にはステッカーが、でんぱ組.incの新譜には缶バッチがおまけで。どれもまだ聴いてない。っていうか、でんぱ組なんて聴いたこともないのに、試聴もせずになぜ買った?これも森の神秘の力か。

昔からある東京のど真ん中の大きな慰霊の森を巡って、いまこのときのサウンドたちを聴く、と。

この音楽たちも、何百年先まで残るんだよね。CDに焼かれたからには、ビット化されてどこかのサーバの片隅に絶対に残り続ける。聴き続けられるかどうかはともかくとして。文化ってそういうものだよね。寺も神社もたくさん創られて、残っているから文化なのであって。

初音ミクも、残り続けるといいな。ちゃんと、文化として。

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オトホギ2ndミニアルバム『Eulogia』 発売中!
http://www.amazon.co.jp/dp/B00O2Q0U3K

岡崎体育と蓮實重彦と「サルまん」と初音ミク

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岡崎体育の話題になっている「MUSIC VIDEO」のMVを、純粋に、とても感心しながら観た。

いい曲ですよね。

単なる「ミュージックビデオあるある」として、やり過ごしたほうがスマートなんだろうけど、わたしは蓮實重彦の「物語批判序説」に出てくる『紋切型辞典』を思い出してしまいまして。

「ひとたびこれを読んでしまうや、ここにある文句をうっかり洩らしてしまいはせぬかと恐ろしくなり、誰ももう口がきけなくなるようにしなければなりません。」

フローベールの遺稿の中から見つかったこの辞典が意図していたことは、明白に作品の中に批評的な視座を持ち込むことだったと思われ、それが一連の岡崎体育のMVづくりとも通底しているなと。(ちなみに「物語批判序説」においてフローベールの話はほんのイントロダクションで、中身は物凄く深いので是非一読をおすすめします)

以前に同じような感想を持ったのが『サルでも描けるまんが教室』。これもひとたびこれを読んでしまったら、ここに出てくるパターンを使ってマンガを描いたら恥ずかしいぞと、そういう効能を明らかに持っていた。それは本質的な批評が果たすべき役割が、作品の側に組み込まれて、しっかり機能するという貴重な現象だと思う。ちょうど最近出た『ゲンロン2』で小特集されている「現代日本の批評」の中でも『サルまん』が取り上げられてて、そうそう、って思った。

でもマンガは、あっけらかんと、ここに出尽くしているパターンをどんどん細分化していったかも。まだ『サルまん』が出た92年頃はまんがはまんがとしてひとつのジャンルだったからこそ、そういう批評的な視座が機能したのでしょうね。

そういえばミュージックビデオというのも、音楽の副次的な産物というか、私生児っぽいですね。

音楽自体はマンガ以上に細分化したデータベース消費に晒されているのに、岡崎体育のミュージックビデオあるある批評の射程は、すべてのジャンルにちゃんと届くというところが、一番凄いのかもしれません。

初音ミクはどうだろう。

まだ初音ミクという共通の文脈がかろうじて機能しているジャンルなのかな。もちろんわたしには、自分の作品の中にそのジャンルを解体するくらいに批評的な視座を持ち込むなんて真似、できませんけどね。

3rdミニアルバム『リナシータ』クロスフェード、27日夜こっそり公開予定

明日4月27日の夜、30日のニコニコ超会議内の「THE VOC@LOiD 超 M@STER34」で、先行発売予定の3rdミニアルバム『リナシータ』のクロスフェードを、ニコ動で公開する予定です。

明日も夕方から夜にかけて、なんだかいろいろある予定なので、何時になるかわかりませんが。。。

オトホギの3rdミニアルバム、超ボーマスで先行発売します

 

pjt-renascita新しいアルバム、つくりました。全国発売は2016年7月15日の予定。

この間、すべてのイベントへの参加を控え、制作に集中してきて、結局一年かかっちゃった。

全曲書き下ろしのオリジナルです。

思えば1stと2ndは、ボカロって何だろうとか、初音ミクって素敵だよね、とか、そういうことが新鮮で、勢いで創り上げていった感じがするなあ。

でも今回はじめて、アーティストとして、いや、違うな、アーティストではなく、サークルとして、僕らは何を楽しんでいるのか、何を楽しみたいのか、そもそもわたしたちはどんなことが価値があると思っているのか、そんなことを真剣に考えた。

もちろんそんな大きな問題に、いくら考えても答えなんて出せるはずはなく。それでもキーを叩けば音は出る。リピートさせればビートが出来上がる。フレーズに歌詞を打ち込めばミクさんが歌ってくれる。。。やっぱりいつものように、ただ心地よいと思う音を重ねて音楽を創っていった。

創っていくなかで、いくつかの詩の断片が、ひとつの物語につながった。曲は全部、ひとつひとつ完全に独立しているのだけれど、その後ろ側にはひと連なりの物語がある。

物語は、現実にあったとても陰残な事件がベースになっている。

作詞のDr.ヤンスキが、そのとてもパーソナルで陰残な出来事に、世界規模の大きな出来事を重ねた。この瞬間に、七人の少女たちの歌と、その背後にあるひとつの歌、計8曲が、勝手に動きはじめた。

絵師のヲイカワの中でも、その物語と少女達は勝手に躍動を始めた。

彼は長年オトホギの絵を描いてきたiPadを捨て、白いスケッチブックにダイレクトに絵を書いていった。後戻りも修正もままならないアナログの世界で、静謐と躍動の両方を併せ持った少女達が描かれていった。

このアルバムは現実に起きた「圧倒的な暴力」を伴うふたつの出来事がテーマ。

でもそれはあくまでも、創り手側がテーマとして選んだだけなので、出来上がった歌のそれぞれは、そのようなテーマとも物語とも切り離して、みんなそれぞれ自由に愉しんでほしい。

やっぱりわたしたちは、このアルバムを創る過程で、もう一度ボーカロイドの楽しさと素晴らしさを再発見したんだ。だからこのアルバムは、わたしたちの「リナシータ」でもあると。

2016年5月15日追記

Amazon他でも予約はじまりました!!

制作中の3rdミニアルバムは初音ミクDARK率が高い

最近、初音ミクDarkばかり調声してる。

この声が好きなんだろうな、やっぱり。
オリジナルが一番好きだと思ってたのに。

この調子でいくと、半分以上Darkのリードになるかも。。
バージョン4ももうすぐ出るんだろうね。

3rdミニアルバム、かなり全体像が見えてきました。

思えばここ一年ほど、自分の中ではずっと「アルバム制作中」というモードで。
このモードに入ると、当然PCやソフトのアップデートは厳禁で。
どんなに新しいソフトを手に入れても、完成するまで環境は絶対変えない。

ちなみにいまの環境。

PCは数年前に買ったヤマダ電機PBのフロンティア製。
Core-i7-860/2.8GHz
メモリ32GBでwindows7

AudioI/FはM-Audio Firewire1814。
これはもう7年くらい使ってるかな。

メインのDAWはProTools11。
これにNative InstrumentsのKomplete9と、
Wavesのプラグインを立ち上げて創る。

ほとんどの曲はMassiveとKontaktとBatteryのプリセットを、
ただひたすら並べて出来上がっている。

曲を創るのではなく、プリセットを並べていくと、いつしか曲が出来上がる。

だから自分は作曲家でも演奏者でもアレンジャーでもアーティストでもなく、
「プリセット・チョイサー」という肩書きが一番しっくりくると思っている。

永遠と一瞬あるいは圧倒的な絶望と闘うレイヤーの美学

わたしはレイヤーではない。

でも身近にレイヤーがいる。彼等は独特の美学を持っている。
これは現在においてとても貴重な美学だと思う。
レイヤーたちが持っている美学を、徹底的に擁護、いや支持したい。

もちろん彼等は誰かに擁護されたり支持されるために、ウィッグを整え衣装に針を入れているわけではない。
それでも、誰かがちゃんと言語化する必要がある。
文化とは、そういうものだ。

レイヤーは、静止していることに拘る。そんな風に見える。
彼等はカメラの前で最高の一瞬を収めることに拘る。
ビデオで撮られることを前提にするレイヤーは、あまりいないような気がする。

キャラクターがオリジナルで、レイヤーはその二次創作ということになる。
二次創作は、常にオリジナルに対する批評を含む。批評という概念は難しい。
それは批判や模倣とは圧倒的に違う。

彼等は一瞬を永遠へと封じ込める。

ここにレイヤーの美学のすべてがある。
どんな物語にも、はじまりがあって終わりがある。
それはとても儚い。
どんなに愛を持って接しても、
どんなに思い入れをもって体験しても、
必ず終わる。

誰もが説話論的な持続に対して、
何かが終わってしまうことに対して、対抗しようとする。
それが新しい何かを産みだす。
批評とはそのような態度のことだ。

頼むからこの物語を終わらせないでほしい。
頼むからこの輝きを止めないでほしい。
小説でも漫画でもアニメでも映画でもドラマでも、
最高の作品に出逢うとき、わたしたちはそんな風に思う。

しかしそれは不可能だ。
それでも世の中には素晴らしかった作品の続編が
次々と産み出され、失望の中でオワコンと化してゆく。

物語から、一瞬の永遠を抜き出す。

その輝きを、その美しさを、一瞬に封じ込める。
たったひとつのショットに、すべてを託す。

これは絶望的な試みだ。

レイヤーたちは、自分のレイヤーとしての「旬」を誰よりも意識している。

物語も、そして自分自身も、いつか終わってしまう。
この圧倒的な絶望に、全身全霊をこめて対抗する。
ここに極めて高度な批評が産まれる。

もしかしたら当のレイヤー達でさえ、
この高度な批評精神と現代におけるもっとも純度の高い表現活動に自分が組していることに気がついていないのかもしれない。

旧作「姫、グレネード」のIA版リマスターをアップしました

オトホギをはじめて、二番目つくった曲です。

ヤンスキー先生の詩にも、なんだか勢いを感じます。

その詩をはじめて読みながら、既に曲がアタマの中に鳴り始めていたことを覚えています。

つくるというより、取り出した感じ?

そういうの、あまりないんですよね。だいたいはウンウン苦しんで創り上げる感じなので。

だからこの歌を、歌い手を変えてもう一度アップさせてもらいました。

こうして聴くと、IAの方が少し似合ってるかもしれないかなと。